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フランクリン・ルーズベルト大統領の恐ろしさ

 私たち日本人は、第二次世界大戦でアメリカと戦い、そして負けました。その戦争時のアメリカ大統領が、フランクリン・デラノ・ルーズベルトです。

 アメリカ合衆国軍の最高司令官は大統領です。ですからフランクリン・ルーズベルトは当時の日本にとって敵の総大将でした。しかしその総大将であったルーズベルトがどんな人間で、何をしたかを知っている日本人は、意外と少ないのではないでしょうか。実はルーズベルトはかなりとんでもない人です。

 これからルーズベルトが具体的に何をしたのか、見ていきたいと思います。まず前半は簡単なあらすじで全体を確認し、そして後半で一つ一つ詳しく見ていく、という構成になっています。



あらすじ


 1933年、フランクリン・デラノ・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領に就任しました。

 このときまで、アメリカはソ連のことを国として認めていませんでした(未承認)。ソ連の共産主義を警戒したからです。しかしルーズベルトは大統領に就任すると、すぐにソ連を承認しました。ルーズベルトはソ連と共産主義に甘かったことで有名ですが、その性質は大統領に就任したときからすでに現れていたのです。

 ルーズベルトは世界恐慌でガタガタになっていたアメリカ経済を立て直すために、ニューディール政策を実行していきましたが、結局は不景気も失業率も改善できませんでした。

 ルーズベルトは、明らかに戦争をしたがっていました。なぜ戦争をしたかったのか?戦争してアメリカの工業を活発にしたいとか、人種差別意識が凄くて日本人が大嫌いだったとか、ソ連のスパイに利用されたとか、いろいろな理由が考えられています。

 しかしアメリカ国民の多くは、アメリカが戦争に参加することに反対でした。ルーズベルトは選挙で選ばれた政治家であり、大統領ですから、国民の支持を失えば政治家生命も失うことになります。ですから、このままでは戦争ができません。

 そこでルーズベルトは、ドイツや日本と戦争するためにいろいろな挑発を行いました。大多数の国民が戦争に反対している中、戦争するためには、ドイツや日本を挑発し、怒らせ、向こうに先に攻撃させる必要があったのです。そうすれば「向こうが先に攻撃してきた!降りかかる火の粉は払わねばならない!」と言って、戦争することができます。

 ルーズベルトは、ドイツとポーランドの交渉にちょっかいを出してこじれさせたり、イギリスやフランスに「ドイツに厳しい態度をとれ」といったり、ドイツの潜水艦を追いかけ回して攻撃したり、日本の経済にダメージを与えたり、日本が石油を輸入できないようにしたり、こっそりハル・ノートというたいへん挑発的な文書を送ったりと、いろいろなことをしました。そんなルーズベルトが、なんと12年間も政権の座に座り続けたのです。

 なぜルーズベルトがそんなに強かったのかというと、前大統領であるハーバート・フーバーが1929年に発生した世界恐慌の対処に失敗したからです。これで共和党が国民からの信頼を失い、そのライバルである民主党のルーズベルトが相対的に人気を獲得したのです。

 さらに、ルーズベルトには「演説がとてもうまい」という強みがありました。例えば日本では小泉元総理が演説がうまかったですが、おそらくルーズベルトはもっとうまかった。当時のアメリカ人たちが敵味方の立場を超えて彼の演説のうまさを絶賛していますから、よほどうまかったのでしょう。そして嘘をつくのもうまかった。だからこそ、アメリカ国民は余計に騙されたのです。

 結局、ドイツはイギリスやフランスと戦争(のちにアメリカとも)になり、日本はアメリカやイギリスと戦争になりました。ルーズベルトの狙いどおり、彼は国民に嫌われることなく戦争を始めることに成功したのです。ルーズベルトは第二次世界大戦の原因を作ったのでした。

 ですから、ルーズベルトの犠牲になったのは日本だけではありません。アメリカ自身もあの戦争のせいでたくさんの国民が犠牲になりました。しかし、当時の日本人もアメリカ人も他の国の人も、ほとんどの人々がこの真相を知らなかったのです。この真相が明らかになったのは、戦後しばらく経って、当時生きていた人の証言が出てきたり、当時の資料が公開されるようになってからのことでした。

 私たちは学校の教科書で、「日本が悪いことをしたから戦争になった」と教わりましたが、史実はそんな単純ではありません。日本だけでなく、アメリカなど外国の事情も調べないと、歴史の真相は分からないのです。



ルーズベルトは第二次世界大戦勃発の原因を作った


 それでは、ここから詳細を見ていきたいと思います。

 そもそも第二次世界大戦は、ドイツがポーランド領土のダンツィヒ(現在はグダニスク)を攻撃したことから始まりました。つまり「なぜドイツがポーランドのダンツィヒを攻撃したのか」が分からないと、第二次世界大戦が起こってしまった理由も分かりません。

 ダンツィヒという港町は、元々ドイツの前身・プロイセンの領土でした。しかし第一次世界大戦でドイツが負け、ヴェルサイユ条約が結ばれました。このとき独立したポーランドの領土としてダンツィヒが組み込まれたのです。だからダンツィヒの住民の90%はドイツ民族でした。ヴェルサイユ条約は民族問題を一切考慮せずに国境線を引いてしまった。その結果、ダンツィヒの領土問題はドイツと他のヨーロッパ諸国の間に大きな禍根を残すことになったのです。

 ヒトラーはこのダンツィヒの返還と、飛び地であるダンツィヒまでのアクセス権(ポーランド回廊)を求めました。ドイツ民族が大半を占める領土ですし、そもそもヴェルサイユ条約の国境線の引き方が滅茶苦茶だったこともあって、このヒトラーの要求には理がありました。それに、当時ポーランドにとってドイツより危険なのが東のソ連でした。ソ連はポーランドを含む東ヨーロッパを奪うために隙をうかがっていました(実際この後ソ連は東ヨーロッパに進出しています)。だからポーランドはドイツと戦っている場合ではなかったのです。

 さらに、ヒトラーも東進(ソ連と戦うこと)を主張していました。ヒトラーは著書『我が闘争』の中で、同盟を組むべき相手はイギリスとイタリアであり、かつイギリスと揉めないようにドイツの国益を伸ばすには、ソ連と戦って東方で領土拡張をすることが必要だと述べています。ドイツの未来をこう述べていたのは、ヒトラーだけではありません。例えばルーズベルトの前の米大統領であるハーバート・フーバーは1938年、チェンバレン首相とのロンドンでの会談で以下のように述べています。

 「今、ドイツは東に向いている。彼らは陸の民族だ。彼らの膨張のために、さらなる領土と資源を求めるだろう。そのとき彼らにとって極めて重要な土地が、ロシアとバルカン半島である1)

 このようにポーランドとドイツのそれぞれの事情を考えれば、ポーランドがドイツと組んでソ連と戦う、という手もあったはずなのです。ドイツのリッベントロップ外相は、ポーランドのベック外相との間で、ダンツィヒのドイツへの返還とポーランド回廊の扱いについて実質的合意ができていたと語っていました2)

 しかし1939年3月31日、イギリスのチェンバレン首相は今まで行ってきた対独宥和政策を破棄。ポーランドの独立の保証を宣言しました。つまりイギリスは「もしポーランドが攻撃されたらイギリスが守ってやる。だからダンツィヒをドイツに渡す必要はない」という意思表明を行ったのです。これがヒトラーを激怒させ、ドイツの態度が強硬的になりました。

 では、なぜチェンバレン首相はドイツに対し、冷たくなったのか?実はここに、ルーズベルトが絡んでいたのです。

 ジェームズ・フォレスタル米海軍長官は日記の中で、アメリカの駐英大使であったジョセフ・ケネディと会話したときのことを以下のように語っています。

 「今日、ジョセフ・ケネディとゴルフをした。私は彼に、1938年以降どのような会話をルーズベルトやチェンバレンと交わしたかを尋ねた。彼は次のように語った。1938年には、イギリスは戦いの準備もできておらず、ヒトラーと戦うことなど危なくてとてもできない状況だった。ウィリアム・ブリット(アメリカ駐仏大使。ヨーロッパ全体を管轄する全権大使のような力を持っていた)の工作さえなければ、ドイツはイギリスとの戦争を避けただろう。そうなっていればヒトラーはソビエトと戦っていたはずである。ブリットがFDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルトの略)を説得し(1939年夏)、ポーランドに、ドイツの要求には一切妥協するなと強要したのである」

 「フランスもイギリスも、アメリカの工作がなければポーランドの問題を開戦理由にするようなことはなかった。ブリットはFDRに、(ポーランドが強気でいさえすれば)ドイツが軍事行動に出ることはないと吹き込んでいた。ケネディは、そんなことはないと反論していた。ケネディはチェンバレンが『イギリスを戦争に追い込んだのはアメリカである。ルーズベルトがイギリスを無理やり戦争に駆り立てた』と語っていたことを教えてくれた3)

 また、1930年代にポーランド駐米大使であったイェジ・ユゼフ・ポトツキは、アメリカ駐仏大使のウィリアム・ブリットと交わした会談内容について、次のように報告(1939年1月16日付)しています。

 「フランスとイギリスは全体主義国家とはいかなる妥協もしてはならない。それが大統領(ルーズベルト)の断乎たる考えである。両国は、どのような形であれ現行の領土の変更を狙う(ドイツとの)交渉に入ってはならない。その要求の代償として、両国に対してアメリカは倫理的な約束をしている。それはアメリカは孤立主義を止め、戦争が起きた場合には積極的に英仏の側に立って干渉する、というコミットメントである4)

 このように、実は裏でルーズベルトやウィリアム・ブリットがイギリス・フランスに「ドイツの要求に応じるな」と圧力をかけていた、というのです。その結果、英仏はドイツに強硬的になり、イギリスの後ろ盾を得たポーランドも強気になり、それに対してドイツが怒り、結局戦争になってしまったのでした。アメリカが余計なことをしなければ、ドイツとポーランドの交渉はうまくいき、イギリス・フランスがドイツと戦争することはおそらくなかったでしょう。それをわざわざこじれさせ、戦争に発展させてしまった原因を、ルーズベルト率いるアメリカが作っていたのです。

 しかも、1939年9月3日に英仏がドイツに宣戦布告したにも拘わらず、アメリカはいつまで経っても参戦しませんでした。結局アメリカが参戦する前に、1940年6月、フランスはドイツに占領されてしまいました。フランス首相ポール・レノーは6月13日のラジオで国民に「フランスは血を流している。なぜアメリカはドイツに対しての戦争を躊躇するのか」という趣旨のことを訴えています5)



事実を捏造してまでドイツと戦争しようとした


 ルーズベルト大統領がなかなか参戦できなかった理由に、アメリカ国民の世論があります。真珠湾攻撃直前まで、アメリカ国民の83%がアメリカの参戦に反対していました6)。そのまま参戦したら、国民の大半を敵にまわすことになります。そうなればルーズベルト政権は倒れてしまいます。

 そこでルーズベルトは、「ドイツに攻撃されたので仕方なく参戦する」という話にするために、事実の捏造を行いました。その例が、1941年9月4日の『グリア号事件』と10月17日の『カーニー号事件』です。

 まずグリア号事件ですが、これはアメリカ駆逐艦グリア号とイギリス航空機がドイツの潜水艦を攻撃したという出来事です。海軍作戦部長ハロルド・スターク大将の報告書は、次のような内容でした。

 当時グリア号はアイスランドへ向かう途中でしたが、イギリスの航空機から「真正面訳10マイル先に潜水艦がいる」という連絡を受け、潜水艦を3時間28分にわたって追いかけ回しました。その間、グリア号が潜水艦の位置を送信し、イギリスの航空機が潜水艦付近に爆雷4発を投下し、飛び去っています。それに対して潜水艦はグリア号に向けて魚雷1発を発射。グリア号は爆雷8発で潜水艦を攻撃。潜水艦はもう1発魚雷を発射。いずれも当たらず。その後潜水艦を見失いますが、約2時間後、再び潜水艦と接触するとただちに爆雷で攻撃。しかし効果は確認できず。その後さらに約3時間創作を続け、諦めて元の任務に戻りました7)

 明らかにアメリカ・イギリスから先に攻撃を仕掛けたわけですが、この事件をルーズベルトは9月11日のラジオで次のように述べたのです。

 「(グリア号は)アメリカの郵便物をアイスランドに運んでいるところでした。この駆逐艦はアメリカ国旗を掲げて航行していました。この艦がアメリカ船籍であることは見間違いようがありませんでした。そうして、そこで同艦は潜水艦に攻撃されたのです。ドイツはそれがドイツ潜水艦であったことを認めています。・・・・・・率直な事実をお伝えします。それはドイツの潜水艦が先にアメリカの駆逐艦に対して発砲したということです。それも警告もなしに、計画的に、アメリカ艦を撃沈させようと」
 「われわれはヒトラーとの武力戦争を望んだことはありません8)

 つまり、ルーズベルトは真っ赤な嘘をついていたのです。「率直な事実をお伝えします」とまで言いながら。

 次にカーニー号事件ですが、これは護送任務についていたアメリカ海軍艦カーニー号が、ドイツの潜水艦隊と長時間戦闘、その結果ドイツ潜水艦の魚雷がカーニー号に命中し、11人が死亡したという出来事です。グリア号事件のときと同じく、カーニー号が先に攻撃を仕掛けました。この事件に関しても、ルーズベルトは「ドイツが悪い。アメリカは戦うべきだ」という趣旨の演説で国民を煽っています9)

 このように、当時ルーズベルトは「ドイツに攻撃されたので仕方なく参戦する」という話を作るために必死でした。ドイツは攻撃されない限りアメリカ海軍との戦闘を避けていたため、結局この工作はうまくいきませんでした。しかし、こういった最初の一発を撃たせるための挑発を受けていたのは、ドイツの他にもう一か国あったのです。それが日本でした。



ハル・ノートは日本だけでなく、アメリカをも欺いた


 ルーズベルト大統領は対日資産凍結や石油の全面禁輸などの経済封鎖を行いました。それによって日本は、このままでは国が干上がってしまうという状況に追い込まれたのです。それでも日本はアメリカとの戦争を避けようと粘り強く交渉を続けていました。しかし、その日本にとうとうアメリカとの交渉を諦めさせたのが、あの「ハル・ノート」でした。

 ハル・ノートとは、1941年11月26日(アメリカ時間)にアメリカが日本の野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使に手渡した文書です。交渉時のアメリカ側責任者がコーデル・ハル国務長官だったので、ハル・ノートという名前になっていますが、もちろん最高責任者はルーズベルトです。

 ハル・ノートは口頭陳述と本体(第一項・第二項)から成っていますが、ここでは特に重要な本体の第二項について見てみたいと思います。第二項は次の十項目から成っていました。

(1)日米両国はイギリス・オランダ・支那・ソ連・タイと共に多辺的不可侵条約を締結する
(2)アメリカ・イギリス・支那・日本・オランダ及びタイ政府間に仏印の領土主権尊重に関する協定を締結する
(3)日本は支那及び仏印より一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤退させる
(4)日米両国は重慶政府以外のいかなる政権をも軍事的、政治的、経済的に支持しない
(5)日米両国は支那における治外法権を放棄する
(6)日米両国は新通商条約締結の交渉に入る
(7)日米両国は相互に資産凍結令を廃止する
(8)円ドル為替安定につき協議する
(9)両国政府が第三国と結んだいかなる協定も本協定の目的すなわち太平洋全地域の平和と矛盾するが如く解釈されてはならない
(10)以上諸原則を他国にも慫慂する10)

 これは日本にとって頭をガツンと殴られるような、衝撃的な内容でした。というのも、(1)から(5)は今までの日米交渉に全く無かった法外な要求だったのです。つまり今までの交渉を全て台無しにするものでした。来栖大使は特に(3)と(4)は絶対不可能と述べています11)。なぜなら、日本が支持している汪兆銘政権を見殺しにすることはできないし、日本が現在戦っている重慶政府(蒋介石政権)に一方的に謝罪せよといわんばかりの内容だからです。

 東郷茂徳外相はこのハル・ノートを見たときの感想を「眼も暗むばかり失望に撃たれた」と手記の中に書いています。アメリカは日本と和平する気なんて毛頭無かった、ということが分かったからです。このハル・ノートによって、日本はアメリカとの和平交渉を諦めました。アメリカは日本と戦う気しかない。輸入できない石油はどんどん無くなっていく。このまま待っていたら国は干上がり、戦うことすらできずに負けてしまいます。だから日本は、行動を起こしたのです。

 しかし、そうするとここで一つの疑問が生じます。真珠湾攻撃直前までアメリカ国民の83%が参戦反対だったことは、先ほどもいいました。それなのに、よくこんなハル・ノートみたいなものが議会の承認を得られたな、と。ハル・ノートの内容は日本に思いっきりケンカを売るものでしたから、こんなもの送りつけたら日本と戦争になるじゃないか、と誰しも思います。つまりハル・ノートは日本に対してだけでなく、大多数のアメリカ国民に対してもケンカを売る内容だったのです。なぜルーズベルト政権はそんなことができたのか?

 実はこのハル・ノート、なんと国民や議会に一切知らせず、ルーズベルトとその周りの人間たちだけでこっそりやったことだったのです。当時共和党の下院議員だったハミルトン・フィッシュも、このハル・ノートの存在を全く知らなかったと述べています12)。だから国民や議会の反発を受けることがなかったのです。

 そうして日本を挑発して最初の一発を撃たせることに成功したルーズベルトは、真珠湾攻撃の翌日に演説を行いました。「恥辱の日」演説と呼ばれるものです。

 「昨日すなわち1941年12月7日、わが国は大日本帝国の海軍空軍兵力によって突然の、かつ入念に計画された攻撃を受けた。12月7日はわが国の「恥辱の日」として記憶されることになろう。
 わが国と日本は平和状態にあり、同国政府および天皇と、太平洋方面における、和平維持に向けて交渉中であった。
(中略)
 日本の入念に準備されたわが国への侵略に対する戦いに、どれほどの月日が必要であっても、正義の力をもって完全なる勝利を実現する。
 われわれは全力で国を守り抜かなければならない。そして二度とこうした欺瞞に満ちた行為によってわが国の安全が脅かされてはならない。
(中略)
 私は議会に対して、1941年12月7日日曜日の、挑発されていないにもかかわらず、わが国を卑劣にも攻撃した事実をもって、合衆国と大日本帝国は戦争状態に入ったことを、宣言するよう求める13)

 驚きの白々しさですが、ルーズベルトは他にも本当にたくさんの嘘をついてきました。この人は息を吐くように嘘を吐きます。

 これでアメリカ国民も議会も完全に騙されてしまいました。皆「卑怯な日本をやっつけろ!」と怒り一色に染まってしまったのです。日本は自分の知らないところで一方的に悪者にされてしまいました。日本は嵌められたわけですが、同時にほとんどのアメリカ人も嵌められたのです。

 ルーズベルトはこうして、日本を欺き、アメリカ国民を欺き、アメリカ議会を欺き、自分のまわり以外の全ての人間を欺いて、日本との戦争を始めることに成功したのです。この戦争でたくさんの日本人・アメリカ人が犠牲になりました。



なぜ日本は真珠湾(アメリカ)を攻撃したのか


 ハル・ノートでアメリカとの和平を諦めた日本は、1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争に突入しました。

 ここで一つの疑問が生じます。なぜ、日本はいきなり真珠湾(アメリカ)を攻撃したのでしょうか?確かにハル・ノートの内容はひどいものでしたが、しかしアメリカの世論は大多数が戦争反対で、アメリカから宣戦布告することは難しい状況でした。だから、とりあえずアメリカのことはほっといて、まずは国内で無くなっていく石油を確保しにいく、という道もあったはずなのです。

 石油を確保するのであれば、まずインドネシアを植民地支配していたオランダと石油交渉をするという手も考えられます。インドネシアのスマトラ島に石油がありましたから、オランダにお金を払って石油を売ってもらう。拒否されれば仕方ないので一戦交え、なんとか石油交渉のテーブルについてもらい、改めて交渉する。そうすれば石油を確保できるし、それだけならまだアメリカが日本に宣戦布告してくる可能性は低かったでしょう。しかし史実では、日本はいきなりアメリカを攻撃し、日米戦争が始まってしまったのです。一体何があったのでしょうか?

 この疑問について、アメリカの国防政策専門家であるフェフリー・レコード氏はこう分析しています。

 「日本海軍は英米は不可分と主張していた。日本海軍は、英米は戦略的に分けて考えることはできないとみていた。それはルーズベルトが日本とドイツを不可分と理解していたことに酷似していた。日本海軍は英領や蘭領を攻撃すれば、武力を伴うアメリカの激しい反発は必至だと考えた。したがってアメリカに対する先制攻撃は軍事戦略上どうしても必要だと結論づけたのだった14)

 つまり、日本は「英米は不可分である」と勘違いしたがゆえに、アメリカとの戦争はもはや避けられず、戦争を有利に進めるためにはアメリカへの先制攻撃が必要だと判断した、というのです。実際、当時の日本側の資料を見ても、英米は不可分と思い込んでいたことがうかがえます。1941年10月中旬に「南方作戦陸海軍中央協定」が策定された際、陸海軍の間で次のような作戦論争がありました。

 「まず蘭印を急襲してマレーにいたるという作戦も検討の対象となるが、さすがに英米がこうした作戦行動を見逃すとは考えられなかった。議論の末、フィリピンと英領マレーに対して同時に『先制急襲』し、左右二方向から急速に南下して蘭印にいたる、という作戦が採用されることになる15)

 "さすがに英米がこうした作戦行動を見逃すとは・・・" のくだりは、まさに英米は一体だと考えていたことをあらわしています。

 しかし、実際は違ったのです。当時のアメリカ国民はイギリスに対して「イギリスの植民地維持のために、アメリカは利用されるのではないか?」という不信感を持っていました。だからこそ、イギリスがドイツに宣戦布告(1939年9月3日)した後も、「イギリスを助けるために戦うべきだ」という世論があまり高まらず、大多数の国民は参戦に反対だったのです。アメリカの世論はイギリスに対して冷たく、英米は決して不可分などではありませんでした。

 こういうアメリカの事情に関する情報が、どうも日本には足りなかったようです。改めて情報収集・分析の大切さを痛感させられる話です。



なぜルーズベルトはそこまでして戦争しようとしたのか


 こうしてルーズベルト大統領の裏工作を見ていくと、アメリカを参戦させるためのその異常なまでの執念に驚かされます。では、なぜルーズベルトはここまで戦争にこだわったのでしょうか?これにはいろいろな理由が考えられます。


ニューディール政策の失敗を取り戻そうとした


 ルーズベルトが推進した経済政策であるニューディール政策の結果、アメリカの景気は回復しませんでした。失業者は1,200万人でほぼ変わらず、それなのに財政赤字は190億ドルから2,500億ドルに膨らんでしまいました16)。だから、アメリカの景気を回復させるために他の手を打つ必要がありました。

 ジョン・T・フリンという米ジャーナリストによると、1938年にはルーズベルトの最も親密な政治顧問が次のように語っていたそうです。

 「ルーズベルト大統領は、軍艦船を作ってアメリカの重工業を活性化させるために、日本を戦争に追い詰めるつもりだと言っていた17)

 しかしこれだけでは、大多数が参戦反対の世論をひっくり返してまで戦争しようとする理由としてはちょっと弱いかもしれません。


ルーズベルトが個人的に日本人を嫌っていた


 駐米英国大使だったロナルド・キャンベルは1942年8月付の手紙の中で、ニューヨーク州ハイドパークのルーズベルト私邸でルーズベルトと対談したときの会話内容を記録しています。

 それによると、ルーズベルトはスミソニアン博物館の自然人類学担当の博士、アレシュ・ヘリチカと親交があり、博士から二つのことを学んだそうです。一つはインド人が白人と同種だということ。もう一つは日本人の頭蓋骨は未発達で、白人に比べ二千年も遅れているという説でした。これを踏まえて、アジアに文明の火を灯すには、アジア人を(優秀な白人種と)人種交配させ、ユーラシア系とヨーロッパ・アジア系とインド・アジア系をつくり出し、それによって立派な文明とアジア社会を生み出していくこと。ただし日本人は除外してもとの島々に隔離して次第に衰えさせるべきだ、というのがルーズベルトの考えだということです18)

 このように、ルーズベルトの人種差別主義による悪意は凄まじいものがありました。ルーズベルトだけでなく、当時は今よりもっと人種差別意識が強く、日本人はこういう理不尽な悪意とも戦わなければなりませんでした。

 確かにこれはルーズベルトがやたら反日的だった理由にはなると思いますが、しかしドイツと戦争したがった理由にはなりません。


ソ連のスパイや容共主義者に利用された


 ルーズベルトが意地でも戦争しようとした理由の中で、最も重大なものがこれだと思います。

 実は、ルーズベルトのまわりにはソ連のスパイ(コミンテルン)や容共主義者がたくさんいたことが、ヴェノナ文書で分かっています。例えば、ハリー・デクスター・ホワイトはルーズベルト政権で財務次官補を務めた人ですが、後にソ連のスパイだったことが判明しました。ホワイトはハル・ノートの原案を作った人です。

 共産主義国家ソ連は、資本主義国家間の対立を煽って戦争させ、その後弱ったところで革命を起こし、共産化する、ということを推し進めていました。それはソ連自体を守ることにも繋がります。コミンテルンはその具体的な工作を行っていたわけです。その結果、第二次世界大戦でイギリス・フランスとドイツが戦い、日本とアメリカが戦うはめになりました。この時代をソ連はほぼ無傷で切り抜け、一人だけ美味しい思いをしています。スパイ工作だけが全てを決めたとは思いませんが、しかし世界情勢にかなりの影響を与えたことは確かでしょう。この辺りの詳細は別途、違う記事でご紹介します。

 ソ連とコミンテルンに対し、ルーズベルトは無警戒でした。ソ連の最高指導者、ヨシフ・スターリンに対しても非常に甘く、ソ連に対し宥和的外交を続けました。しかしルーズベルトが死亡して16年後の1961年ごろ、ルーズベルト夫人であるエレノアはあるテレビ番組に出演し、ルーズベルトが死の直前にスターリンに失望していたらしく、スターリンへの抗議の文書を何通かしたためていたことを明らかにしました19)。また、ルーズベルトの長女の夫だったカーチス・B・ドールは、「最後の最後に、ルーズベルトはスターリンからどれほど「巻き上げられたか」、ジョージア州ウォーム・スプリングズで明らかに後悔と憂慮の念を表明している」と述べています20)。つまりルーズベルトも死の直前でようやく対ソビエト外交の失敗に気づいたのでしょうが、全ては遅すぎたのです。



【参考文献】
1) Herbert Hoover, George H. Nash, ed, Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath, Hoover Institution Press, 2011, p.98
2) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.144
3) 同上、p.131
4) 同上、p.171
5) 同上、p.110
6) The Gallup poll cumulative index : public opinion, 1935-1997
7) チャールズ・A・ビーアド『ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか』開米潤・阿部直哉・丸茂恭子訳、藤原書店、2011年、p.203
8) 同上、p.200
9) 同上、p.205
10) 中村 粲『大東亜戦争への道』展転社、1990年、p.609
11) 同上
12) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.42
13) 同上、pp.5-7
14) ジェフリー・レコード『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか 「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦』渡辺惣樹訳、草思社、2013年、p.93
15) 波多野 澄雄『幕僚たちの真珠湾』吉川弘文館、2013年、p.194
16) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.329
17) NSA公開資料, Tom Johnson, What Every Cryptologist Should Know about Pearl Harbor, 09-27-2007, p.56
18) 日下公人・高山正之『日本はどれほどいい国か』PHP研究所、2008年、pp.185-186
19) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.298
20) カーチス・B・ドール『操られたルーズベルト 大統領に戦争を仕掛けさせた者は誰か』馬野周二訳、プレジデント社、1991年、p.267
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