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GHQとは 日本は本当はGHQに何をされ、今にどう影響しているのか?

▲コーンパイプをくわえたマッカーサー

 敗戦後の日本人がいつまでも自虐史観に囚われたり、平気で日本を貶める人がいたり、外国に土下座外交を続けたりする根本的な原因は、GHQの占領政策にあります。

 GHQとはGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powersの略で、日本語では連合国軍最高司令官総司令部といいます。名目上はポツダム宣言の内容を実行するために設置された、連合国側の機関です。このGHQの最高司令官が、かの有名なダグラス・マッカーサーです。そしてGHQの職員の大半はアメリカ人でした。

 GHQは1945年10月2日、東京の第一生命ビルに総司令部が設置され、以後1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効によって活動を停止するまで、約6年半の間、実質日本を支配しました。つまりこの間、日本の最高権力者は天皇でも内閣総理大臣でもなく、マッカーサーだったのです。この間に輸出された製品の中には「Made in Occupied Japan」と刻印されたものもあります。

 日本がJapanではなくOccupied Japanだったこの6年半の間に、本当は何があったのか。日本人は本当は何をされたのか。それを知らないと、今なぜ日本がこうなっているのかが分からないのです。




情報操作による破壊


 日本をアメリカにとって都合のいい国に作り変えるために、GHQは様々な占領政策を実行しました。そのおかげで日本はすっかり壊れてしまい、その後遺症は未だに残っています。では、どうやって壊したのか?まず、GHQによる巧みな情報操作があります。

 GHQは積極的に情報操作を行い、日本人に「日本がとにかく悪者だった」という思い込みを植え付けました。GHQ内にはWGIP(War Guilt Information Program:ウォーギルトインフォメーションプログラム)という作戦名があったことも、当時の文書から明らかになっています1)

 残念ながらその試みは成功し、今でもGHQに植え付けられた思い込みのまま生きている人が少なくありません。この思い込みを大人たちが断たないと、今度は私たちの大切な子どもたちにまで、知らず知らずのうちにその思い込みを植え付けることになってしまいます。

 では、GHQはその「日本がとにかく悪者だった」という思い込みを、どうやって日本人に植え付けていったのでしょうか。


新教育指針の一方的な内容


 昭和21年(1946年)5月、「新教育指針」というものが発行されました。これは、学校の先生が生徒の教育を行うときに参考にするマニュアルのことです。

 この「新教育指針」は、GHQが文部省に命じて作らせたものでした。まとめ役は東京文理大教授の石山修平という人だったのですが、石山氏は自身の日記『留魂録』の中で「GHQにかなりの部分の書き直しをさせられた」と述べています。

 では、その「新教育指針」の中の一部を見てみましょう。

第一章 序論―日本の現状と国民の反省

二、どうしてこのような状態になったのか

 日本をこのような状態にさせた原因は何であろうか。またそれはだれの責任であろうか。もちろん戦争に負けたから、このような状態になったのであるが、しかし、さかのぼってこの戦争をひき起したことそのことに原因があり、したがって国民をこの戦争へと導いた指導者たちに責任があるのである。

 (中略)しかし指導者たちがあやまちをおかしたのは、日本の国家の制度や社会の組織にいろいろの欠点があり、さらに日本人の物の考え方そのものに多くの弱点があるからである。国民全体がこの点を深く反省する必要がある。

 
 ここで出てくる「指導者たち」というのは、日本の政治家や軍人などのことを指しています。つまり、「日本の政治家や軍人たちが間違いをおかし、さらに日本の国民全体の物の考え方に問題があったせいで、この悲惨な戦争が起きたのだ」と言っているわけです。しかし、後の歴史資料の研究で、実はアメリカやソ連が戦争の原因に大きく関わっていたことが分かっています。

 例えばアメリカの場合、アメリカが日本との戦争に突入したときの大統領はフランクリン・ルーズベルトという人でした。ルーズベルトは差別主義者で、スミソニアン博物館の自然人類学担当博士、アレシュ・ヘリチカの「日本人の頭蓋骨は未発達で、白人に比べ二千年も遅れている」という説を信じていたような人でした2)。アメリカは経済封鎖をして日本を弱め、さらにハル・ノートというとんでもなく挑発的な文書をつきつけて、日本を徹底的に挑発しました。それまでアメリカとの和平交渉を粘り強く行ってきた日本政府は、ハル・ノートの内容を見て、アメリカに和平する気が無いことを悟り、とうとう降伏するか戦うかのどちらかを選ぶしかなくなりました。そして、日本は戦うことを選んだのです。

 またソ連は、各国にたくさんのスパイを送り込み、日本とアメリカ、ドイツとイギリス・フランスが戦争になるように仕組みました。そうやって世界中の強国同士が戦ってくれれば、強国は消耗し、ソ連は力を温存し、今後の世界の覇権を握るのに有利になれるからです。ルーズベルトの周りにもソ連のスパイがたくさんいたことがヴェノナ文書によって分かっています。このように水面下で様々な思惑が働いて、戦争が起きたのでした。ですから、この新教育指針のいっていること、つまり「日本のせいで戦争が起きた」というのは、アメリカやソ連など他国の責任を完全に無視した内容だったのです。

 では、続きです。

三、これからどうしたらよいか

 (中略) 戦争の責任は国民全体が負うべきであり、国民は世界に向って深くその罪を謝するところがなければならない。

 
 日本人は世界に深く謝らなければならない、と言っています。
 
 先ほども説明したように、実は国際社会は少し裏を見ればもう真っ黒で、アメリカやソ連など、それぞれの国にそれぞれの思惑があって日本は戦争に引きずりこまれたのですが、新教育指針では「日本のせいで戦争になった。だから謝れ」と一方的な内容になっているわけです。

 日本人に罪の意識を植え付ければ、日本人は日本に対する誇りや感謝を失い、元気も失い、卑屈になり、かつ世界各国に対して頭が上がらなくなります。するとアメリカをはじめとする各国にとって、都合の良いようにコントロールしやすくなるのです。現に日本は敗戦後、世界各国に金を払い、土下座外交を行ってきましたよね。GHQの作戦はうまくいったわけです。

 当時の日本の学校の先生たちは、この「新教育指針」を受け入れるしかありませんでした。GHQの命令に逆らえば教師の仕事をクビにされ、自分の家族を路頭に迷わせることになりますから、従うしかなかったのです。また、当時の日本人のほとんどは国際社会の真実を知りません。日本が一方的に悪いというのはさすがにおかしいと思いつつも、じゃあ具体的に何が戦争の原因になったのかというと、よく分からなかったのです。

 こうして日本全国の学校で「とにかく日本が悪かった。だから日本は謝らなければならない」という教育が行われ、それが親から子へ、またその子へと受け継がれていき、今に至ります。

 ちなみに新教育指針の内容はこちらのページで見ることができます。


愛国心の教育を禁止


 GHQは、学校で愛国心について教えることを禁じました。教科書から愛国心につながるような記述を消していったのです。

 マッカーサーに命じられ、日本政府は新しい教科書を作りました。CIEの記録によると、昭和21年(1946年)7月、「約百四十六冊の教科書原稿が検閲、改定され、出版を許可された」とあります3)

 このGHQによる検閲は、特に日本史に対して徹底したものでした。それをあらわす例を引用してみます。

 師範学校用の原稿で、執筆者が日本の「美しい自然」を描写したところ、CIE検閲官は削除した。「愛国心」は赤ペンで消され、黒鉛筆で「国を思うこと」と変えられた。「天皇の歴代記」は「天皇の伝説」と変えられた。

 豊臣秀吉が、一五九一年に戦国時代の日本を統一した。常識だったが、CIE検閲官はこれを完全に削除した。「国家統一」が気に入らない。CIEは、天皇や日本について肯定的な論評をしたり、記述したものは全て削除した。このような検閲の後、CIE当局は、「感情的な扱いは、完全にない」と、自信をもって断言した4)


 このことがあってから、いまだに日本では愛国心の教育が行われないままになっています。愛国心というと「右翼だ!」「軍国主義だ!」と叫ぶ人がいますが、あれの始まりはGHQだったのですね。

 ちなみに日本人に愛国心の教育を禁じたアメリカ本国では、当時も今も愛国心をとても大切に教育しています。アメリカだけではありません。愛国心の教育など、世界中の国で常識的に行われています。愛国心の教育が国の繁栄のために重要であることを皆知っているからです。戦争に負け、GHQによって洗脳された日本だけが、未だに歪んだままになっています。


教育勅語の廃止


 教育勅語とは、明治23年(1890年)10月30日に発布された、明治天皇の勅語です。明治維新以後、日本はとにかく「西洋に追いつけ、追い越せ」で、知識詰め込み型の教育が重視される一方、日本伝統の道徳教育が軽視されていました。それを憂慮された明治天皇が出されたのが、この教育勅語です。

 道徳教育の一環として日本人に大切にされた教育勅語でしたが、GHQの命令により、昭和23年(1948年)6月19日に廃止されました日本の伝統文化を理解できないGHQは、教育勅語をカルト宗教の経典のようにとらえたのです。詳細は『教育勅語とは GHQが恐れた理由【原文と現代語訳】』をご覧ください。


『眞相はかうだ』を利用


 昭和20年(1945年)12月9日、NHKラジオ第1放送および第2放送で『眞相はかうだ(しんそうはこうだ)』というラジオ番組がスタートしました。30分番組で全10回。時間帯は日曜午後8時からのゴールデンタイムでした。

 番組の内容は、まさにWGIPそのものでした。「満州事変から終戦までに、日本の軍国主義者が国民を裏切ってあんな犯罪やこんな犯罪をしたのだ」という内容で、一方的に日本指導者が悪かったという意識を植え付ける内容でした。それもそのはず、この番組の脚本を書いたのは民間情報教育局(CIE)というGHQの組織でした。

 その後、番組は『眞相はかうだ・質問箱』『眞相箱』『質問箱』と、名前と内容を少しずつ変えながら、昭和23年(1948年)1月まで放送されました。

 この一連の番組は、GHQが作成したことを隠したうえで、NHKで放送されました。だからNHKに手紙や電話が殺到しました。当時NHK演芸部副部長だった春日由三(かすがよしかず)は、このときのことを「このいまわしい番組をスタートすると、はたせるかな、批判、非難、攻撃の手紙がみるみるうちに私のデスクに山積し、抗議の電話が鳴りやまない、という事態に追いつめられることになった」5)と後に振り返っています。

 このように、自分たちで計画を作り、それを日本人の手で実行させるという「二人羽織体制」が、GHQの常套手段でした。日本人自らが情報発信をしているように見せかけることで、日本国民からの批判を日本人に向けさせ、さらに情報の信憑性を高め(NHKが言うなら本当かも・・・という心理)、より洗脳の効果を高めたのでした。


強力な検閲


 昭和20年(1945年)9月19日、GHQは「プレスコード」という規則を作りました。これは、GHQが新聞や本、雑誌などの出版物を検閲するためのものです。

 具体的には、以下の30項目のどれかに当たれば、その出版物は削除されるか、あるいは発行禁止にされました。これはアメリカ国立公文書館分室の資料番号RG331、Box No.8568、『A Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions』(1946年11月25日)という資料に記されています。ちなみにSCAPというのはGHQのことです。

1.SCAP-連合国軍最高司令官(司令部)に対する批判
2.極東軍事裁判批判
3.SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判
4.検閲制度への言及
5.合衆国に対する批判
6.ロシアに対する批判
7.英国に対する批判
8.朝鮮人に対する批判
9.中国に対する批判
10.他の連合国に対する批判
11.連合国一般に対する批判
12.満州における日本人取扱についての批判
13.連合国の戦前の政策に対する批判
14.第三次世界大戦への言及
15.ソ連対西側諸国の「冷戦」に関する言及
16.戦争擁護の宣伝
17.神国日本の宣伝
18.軍国主義の宣伝
19.ナショナリズムの宣伝
20.大東亜共栄圏の宣伝
21.その他の宣伝
22.戦争犯罪人の正当化および擁護
23.占領軍兵士と日本女性との交渉
24.闇市の状況
25.占領軍軍隊に対する批判
26.飢餓の誇張
27.暴力と不穏の行動の煽動
28.虚偽の報道
29.SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30.解禁されていない報道の公表
6)

 要はGHQにとって都合の悪い話は全部禁止ということです。これだけの規制をしておいて、言論の自由なんてあるわけがありません。しかし、当時GHQは「我々が日本に言論の自由をもたらした」とうそぶいていました。

 これを受けて、朝日新聞をはじめとする日本のメディアは、GHQにいちゃもんをつけられそうな記事の書き方を避け、GHQに喜ばれそうな記事を量産するようになります。その結果、GHQやアメリカを賛美し、日本が悪かったという自虐的な内容に偏るようになりました。

 ちなみに、このプレスコードの存在は新聞社や出版社などに関わる人たちだけに知らされ、その他の多くの日本人には知らされませんでした。つまりほとんどの日本人は、メディアが自主的にそういう記事を書いていると思い込んでいたのです。これもGHQの得意な二人羽織体制でした。

 戦争体験者がもっと戦場の真実を語り継いでいれば、多くの日本人が洗脳されずに済んだのかもしれません。しかし、それは不可能でした。このプレスコードを見て分かるように、当時の日本人は強烈な言論封殺の環境下に置かれていたのです。検閲によって日本人は皆強制的に沈黙させられ、GHQの一方的な情報発信によって真実が歪められていったのでした。

 このプレスコードによる検閲は、いかに当時のGHQが日本人を洗脳していたかをあらわすとても重要な話なのですが、高校の教科書でもせいぜい隅っこの方に小さい字でちょこっと書いてある程度です。


日本国憲法はマッカーサーによって生まれた出来損ない憲法


 現在の日本の憲法である「日本国憲法」の最初の案を出したのは、マッカーサー本人です。「マッカーサー・ノート」と呼ばれる手書きのノートを憲法草案起草の責任者であるコートニー・ホイットニー民政局長に渡し、憲法草案を作らせました。その英語原文7)と日本語訳8)を載せておきます。


【Ⅰ】
Emperor is at the head of the state.
天皇は国家の元首の地位にある。

His succession is dynastic.
皇位の継承は世襲による。

His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.
天皇の義務と権能は、憲法に従って行使され、憲法に示された国民の意志に応じたものでなければならない。

【Ⅱ】
War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
国家の権利としての戦争行為は放棄する。日本は、(国際)紛争解決、および自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには現存世界に生まれつつある高い理念、理想に頼る。

No Japanese Army, Navy or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerancy will ever be conferred upon any Japanese force.
陸、海、空軍は決して認められない。またいかなる交戦権も与えられない。

【Ⅲ】
The feudal system of Japan will cease.
日本の封建制は廃止される。

No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.
皇族以外の爵位は現存のものに限る。

No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.
今日以後、貴族特権は政府もしくは民間機関においてなんらの権力も持たない。

Pattern budget after British system.
国家予算はイギリスの制度を見習う。


 こうして見ると、このマッカーサー・ノートが今の日本国憲法の重要な部分の元になっていることは間違いありません。

 ホイットニーがこのマッカーサー・ノートを受け取った後、民政局は6日間で憲法草案を完成し、ホイットニーたちと日本側との間で討議を行い、1946年3月5日、内閣草案ができあがりました。その後国会でも審議を行い、11月3日、天皇はこれを公布し、1947年5月3日に憲法が施行されたのでした。もちろん、日本側がマッカーサーたちに逆らうことは許されませんでした。だからこそ日本国憲法はマッカーサー・ノートに似た内容になったのです。

 マッカーサー・ノートの中に「国の安全保障のためには現存世界に生まれつつある高い理念、理想に頼る」という部分がありますよね。これはつまり、「世界は皆平和を望むようになった。それによって実際に世界はこれから平和になっていく。だから今後は国を守るためには軍事力に頼らず、他国の良心に頼ればいいんだよ」と言っているわけです。

 マッカーサーやGHQはこれを本気で信じていました。その証拠に、1949年にGHQは『Political reorientation of Japan, September 1945 to September 1948』という本を出版しているのですが、この本の中にマッカーサー・ノートの内容が挿入されているのです。つまり、当時のマッカーサーやGHQにとって、マッカーサー・ノートの内容は世界中の人に見てもらいたいような誇るべきものだったのです。彼らは夢を見ていたのでした。

 ところがその後の1950年6月25日、その夢から醒める出来事が起こります。ソ連の子分である北朝鮮が韓国を攻撃し、朝鮮戦争が勃発。アメリカは国連軍として韓国と共に戦うことになり、マッカーサーはその総司令官になりました。北朝鮮側には中国もつき、戦争は泥沼化。アメリカは共産主義陣営の恐ろしさを思い知らされることになります。このときにマッカーサーたちは「世界は全然平和になっていかない」ということに気づき、夢の世界から現実へ戻ってきたのでした。

 朝鮮半島が戦争に突入したことで、困ったことが起こりました。それは、日本の防備です。GHQはすでに日本軍を解体していましたから、アメリカ軍が日本を守るしかない。しかし朝鮮半島に多くの軍事力を費やしている今、アメリカ軍だけで日本を守るのは無理があります。そこでマッカーサーは仕方なく、朝鮮戦争が勃発してから1か月半後の1950年8月10日に、吉田首相に命じて『警察予備隊』を創設しました。そして共産主義陣営の脅威から日本を自衛するように命令したのです。その後警察予備隊は自衛隊になり、戦車、艦、戦闘機を持つようになり、憲法第九条に完全に矛盾するようになりました。そりゃそうです。元々憲法九条とは、マッカーサーやGHQがまだ夢の世界にいたときの夢の産物なのですから。現実世界に則ったものではありません。マッカーサーは自分で作った憲法の矛盾を、自分で証明してしまったのです。

 マッカーサーやGHQは日本人を夢の世界に置き去りにして、自分たちだけさっさと夢から醒めてしまいました。その後日本人は憲法九条という重大な欠陥を抱える日本国憲法を、施行されてもう70年近く経つ今日まで後生大事に抱えてきました。日本人だけが、まだ夢の世界に取り残されたままになっているのです。


洗脳の総仕上げ『東京裁判』


 正式には『極東国際軍事裁判』といいます。昭和21年(1946年)5月3日から昭和23年(1948年)11月12日まで行われました。裁判とは名ばかりの「リンチ」でしたが。

 内容の詳細はそのうちに別の記事でまとめますが、要はこの東京裁判は「日本は侵略国家であり、悪い国」と一方的に決めつけ、断罪するものでした。


マッカーサーは東京裁判の無意味さを認めた


 しかし東京裁判が終わって約2年後、朝鮮戦争の最中の1950年10月15日、アメリカ合衆国のウェーク島でマッカーサーとトルーマン大統領の対談が行われました。その対談で、マッカーサーは以下のように東京裁判が失敗であったことを実質認める発言をしています。

 「戦犯には手をつけるな。手をつけてもうまくいかない」と答え、またマ元帥は東京裁判とニュールンベルグ裁判には警告的な効果はないだろうと述べた9)


 さらに昭和26年(1951年)5月3日、マッカーサーは米国議会上院の軍事外交合同委員会で以下のような発言をしています。

 Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.10)
 したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。(※筆者訳)


 東京裁判は「日本は侵略国家であり、悪い国」と一方的に決めつけるものでした。その東京裁判の事実上の主催者だったマッカーサー自身が「日本は主として安全保障のために戦った」と、東京裁判の内容と食い違う発言をしたのです。

 なぜマッカーサーがこんなことを言ったのか?マッカーサーはこんな発言もしています。

 我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまったことだ。


 朝鮮戦争の最前線で共産主義者たちと戦ったマッカーサーだからこそ、この発言が出たのでしょう。つまりマッカーサーは、朝鮮戦争を戦ってみてはじめて日本が今まで置かれていた立場(自衛のために共産主義勢力と必死に戦わねばならなかったこと)を理解したのだと思います。



洗脳の恐ろしさ


 以上、日本人がGHQにやられたことをざっとまとめてみました。日本人が今も自虐史観に囚われたり、平気で日本を貶める人がいたり、外国に土下座外交を続けたりするのは、GHQによる洗脳が未だに効いているからです。


知識が無ければ子どもたちを守れない


 安保法制の時に出てきた『シールズ』とか『安保関連法案に反対するママの会』などは、まさに洗脳による犠牲者の集まりです。安保法制などの安全保障関連の法整備は、今後中国の脅威から日本を守るために、つまり私たちの大切な子どもたちや孫たちの幸せを守るために、絶対に欠かせません。なぜなら、今の日本の憲法と法律のままでは、自衛隊はがんじがらめにされてろくに防衛力を発揮できないからです。そして残念ながら、安保法制も自衛隊が日本を自衛するためには全く不十分な内容です。憲法改正も含め、さらに法整備を進めないといけません。相変わらず日本はアメリカとの同盟一本だけでもっている「綱渡り状態」です。

 そのアメリカでは、そのうちに「中国系大統領」が誕生するという話もあります。すでにサンフランシスコは市長が中国系の人になりました。だからサンフランシスコでは従軍慰安婦像がボンボン建っているわけです。完全に反日都市になってしまいました。では、もし中国共産党と繋がった人物がアメリカ合衆国大統領になったら・・・?「日本はアメリカ様に守ってもらえばいいんだよ」という考えがいかに甘いか、お分かりいただけると思います。

 しかし、知識が無いと安全保障関連の法整備がいかに重要か、意外と分からないものです。例えばママの会の人たちの多くは、ただ単に子どもの幸せを願う良心的な人たちなのだと思います。しかし、彼女たちには知識が無い。知識が無いと、野党が「安保法案は戦争法案だ!」「安倍は戦争をしようとしているんだ!」と叫んだときにころっと騙されてしまいます。最低限の事実関係を調べる努力もせず、ただ「そうか、安保法案は戦争法案なんだ!」「安倍は戦争をしようとしているんだ!」と鵜呑みにし、「大切な子どもたちを戦場に送らせはしない!」と思い込みで突っ走ってしまうわけです。

 しかし、もし軍備も法整備もせず、憲法九条だけで国が守れるというなら、なぜウイグル人やチベット人は中国共産党に虐殺されているのでしょうか。ウイグルでは中国に計46回も核実験をされ、ウイグル人19万人が急死、129万人が被爆したといわれています(2009年4月30日 産経新聞より)。以下はイギリスのBBCが新疆ウイグル自治区に潜入取材をしたときの映像です。



 また、チベットでも数百万人のチベット人が虐殺されたといわれています。以下はチベット人が中国共産党にまるで狩りのように淡々と射殺されている映像です。



 ウイグル人やチベット人は、別に戦争しようとしている民族ではありません。ただ平和に暮らしていただけです。それを中国共産党は、領土と資源が欲しいが故に侵略しました。これが、国際社会の現実です。自衛する力が無ければ殺されるという当たり前の事実です。「軍備も法整備もいらない!憲法九条を守っているだけで、日本は平和でいられるのだ!」という現実逃避的思考は、中国共産党から見たら爆笑ものでしょう。国、つまり子どもたちの未来を守るための法整備なのに、それを「安倍総理が戦争したいから安保法案を通そうとしているんだ」という印象操作で無知な人々を騙し、邪魔しようというやり方は、卑劣そのものです。
 
 ママの会の人の多くにはこういった「現実の知識」が無いのでしょう。だから子どもたちを守りたいという気持ちがあっても、肝心な「どうすれば子どもたちを守れるのか」が分からないのです。だからすぐ騙される。「憲法を守れ!」「戦争を許すな!」という聞き心地の良いそれっぽい言葉に簡単に流される。残念ながら、気持ちだけで子どもたちを守れるほど世の中は甘くありません。子どもたちの本当の味方になってやれる大人になるには、騙されないで済むだけの"最低限の勉強"がどうしても必要です。

 政治家や官僚の中にも「日本が悪かったのだから、もう二度と戦争しないように力も法も持ってはいけないんだ!」「憲法九条の精神を守らねば!」と洗脳されている人がいます。政治家や官僚だけではありません。歴史学者、大学教授、学校の教師、マスコミ、弁護士など、あらゆる業界に存在します。そんな人たちが無知な人をまた洗脳し、その人たちがまた無知な人を・・・とエンドレスに洗脳が続きます。だからいつまでも、洗脳の犠牲者がいなくならないのです。


家庭教育しかない



 このGHQの呪いを断ち切るには教育を正す必要があるのですが、残念ながら学校教育が今日明日でいきなりパッと変わることはありません。

 そこで重要になるのが『家庭教育』です。学校がだめなら、もう親が家庭で子どもに教えるしかありません。私たち親の世代が日本の本当の歴史を知り、そのうえでそれを子どもたちに教えれば、子どもたちがこの先おかしな洗脳をされる可能性は下がるでしょう。シールズの人たちみたいな犠牲者にならないで済みます。

 特に日本人のように敗戦で歴史をねじまげられてしまった民族にとっては、本当の歴史を学ぶことは極めて重要です。人生を思い切り左右します。本当のことを知って子どもたちの未来を守れる大人として生きていくのか、それとも洗脳されて子どもたちの未来を守れない大人として生きていくのか。私はできれば前者になりたいと思っています。



【参考文献】
1) 関野通夫『日本人を狂わせた洗脳耕作 いまなお続く占領軍の心理作戦』自由社、2015年、p.53
2) 日下公人・高山正之『日本はどれほどいい国か』PHP研究所、2008年、p.186
3) 西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論社、1998年、p.291
4) 同上、pp.291-292
5) 春日由三『体験的放送論』日本放送出版協会、1967年、p.271
6) 江藤淳『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』文春文庫、1994年、pp.237-241
7) 国立国会図書館HP『マッカーサー3原則(「マッカーサーノート」) 1946年2月3日』 http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/072shoshi.html
8) 西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論社、1998年、pp.208-209
9) 朝日新聞 1951年5月4日付
10) Edward T. Imparato, ed, General MacArthur : speeches and reports 1908-1964, Turner Pub, 2000
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フランクリン・ルーズベルト大統領の恐ろしさ

 私たち日本人は、第二次世界大戦でアメリカと戦い、そして負けました。その戦争時のアメリカ大統領が、フランクリン・デラノ・ルーズベルトです。

 アメリカ合衆国軍の最高司令官は大統領です。ですからフランクリン・ルーズベルトは当時の日本にとって敵の総大将でした。しかしその総大将であったルーズベルトがどんな人間で、何をしたかを知っている日本人は、意外と少ないのではないでしょうか。実はルーズベルトはかなりとんでもない人です。

 これからルーズベルトが具体的に何をしたのか、見ていきたいと思います。まず前半は簡単なあらすじで全体を確認し、そして後半で一つ一つ詳しく見ていく、という構成になっています。



あらすじ


 1933年、フランクリン・デラノ・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領に就任しました。

 このときまで、アメリカはソ連のことを国として認めていませんでした(未承認)。ソ連の共産主義を警戒したからです。しかしルーズベルトは大統領に就任すると、すぐにソ連を承認しました。ルーズベルトはソ連と共産主義に甘かったことで有名ですが、その性質は大統領に就任したときからすでに現れていたのです。

 ルーズベルトは世界恐慌でガタガタになっていたアメリカ経済を立て直すために、ニューディール政策を実行していきましたが、結局は不景気も失業率も改善できませんでした。

 ルーズベルトは、明らかに戦争をしたがっていました。なぜ戦争をしたかったのか?戦争してアメリカの工業を活発にしたいとか、人種差別意識が凄くて日本人が大嫌いだったとか、ソ連のスパイに利用されたとか、いろいろな理由が考えられています。

 しかしアメリカ国民の多くは、アメリカが戦争に参加することに反対でした。ルーズベルトは選挙で選ばれた政治家であり、大統領ですから、国民の支持を失えば政治家生命も失うことになります。ですから、このままでは戦争ができません。

 そこでルーズベルトは、ドイツや日本と戦争するためにいろいろな挑発を行いました。大多数の国民が戦争に反対している中、戦争するためには、ドイツや日本を挑発し、怒らせ、向こうに先に攻撃させる必要があったのです。そうすれば「向こうが先に攻撃してきた!降りかかる火の粉は払わねばならない!」と言って、戦争することができます。

 ルーズベルトは、ドイツとポーランドの交渉にちょっかいを出してこじれさせたり、イギリスやフランスに「ドイツに厳しい態度をとれ」といったり、ドイツの潜水艦を追いかけ回して攻撃したり、日本の経済にダメージを与えたり、日本が石油を輸入できないようにしたり、こっそりハル・ノートというたいへん挑発的な文書を送ったりと、いろいろなことをしました。そんなルーズベルトが、なんと12年間も政権の座に座り続けたのです。

 なぜルーズベルトがそんなに強かったのかというと、前大統領であるハーバート・フーバーが1929年に発生した世界恐慌の対処に失敗したからです。これで共和党が国民からの信頼を失い、そのライバルである民主党のルーズベルトが相対的に人気を獲得したのです。

 さらに、ルーズベルトには「演説がとてもうまい」という強みがありました。例えば日本では小泉元総理が演説がうまかったですが、おそらくルーズベルトはもっとうまかった。当時のアメリカ人たちが敵味方の立場を超えて彼の演説のうまさを絶賛していますから、よほどうまかったのでしょう。そして嘘をつくのもうまかった。だからこそ、アメリカ国民は余計に騙されたのです。

 結局、ドイツはイギリスやフランスと戦争(のちにアメリカとも)になり、日本はアメリカやイギリスと戦争になりました。ルーズベルトの狙いどおり、彼は国民に嫌われることなく戦争を始めることに成功したのです。ルーズベルトは第二次世界大戦の原因を作ったのでした。

 ですから、ルーズベルトの犠牲になったのは日本だけではありません。アメリカ自身もあの戦争のせいでたくさんの国民が犠牲になりました。しかし、当時の日本人もアメリカ人も他の国の人も、ほとんどの人々がこの真相を知らなかったのです。この真相が明らかになったのは、戦後しばらく経って、当時生きていた人の証言が出てきたり、当時の資料が公開されるようになってからのことでした。

 私たちは学校の教科書で、「日本が悪いことをしたから戦争になった」と教わりましたが、史実はそんな単純ではありません。日本だけでなく、アメリカなど外国の事情も調べないと、歴史の真相は分からないのです。



ルーズベルトは第二次世界大戦勃発の原因を作った


 それでは、ここから詳細を見ていきたいと思います。

 そもそも第二次世界大戦は、ドイツがポーランド領土のダンツィヒ(現在はグダニスク)を攻撃したことから始まりました。つまり「なぜドイツがポーランドのダンツィヒを攻撃したのか」が分からないと、第二次世界大戦が起こってしまった理由も分かりません。

 ダンツィヒという港町は、元々ドイツの前身・プロイセンの領土でした。しかし第一次世界大戦でドイツが負け、ヴェルサイユ条約が結ばれました。このとき独立したポーランドの領土としてダンツィヒが組み込まれたのです。だからダンツィヒの住民の90%はドイツ民族でした。ヴェルサイユ条約は民族問題を一切考慮せずに国境線を引いてしまった。その結果、ダンツィヒの領土問題はドイツと他のヨーロッパ諸国の間に大きな禍根を残すことになったのです。

 ヒトラーはこのダンツィヒの返還と、飛び地であるダンツィヒまでのアクセス権(ポーランド回廊)を求めました。ドイツ民族が大半を占める領土ですし、そもそもヴェルサイユ条約の国境線の引き方が滅茶苦茶だったこともあって、このヒトラーの要求には理がありました。それに、当時ポーランドにとってドイツより危険なのが東のソ連でした。ソ連はポーランドを含む東ヨーロッパを奪うために隙をうかがっていました(実際この後ソ連は東ヨーロッパに進出しています)。だからポーランドはドイツと戦っている場合ではなかったのです。

 さらに、ヒトラーも東進(ソ連と戦うこと)を主張していました。ヒトラーは著書『我が闘争』の中で、同盟を組むべき相手はイギリスとイタリアであり、かつイギリスと揉めないようにドイツの国益を伸ばすには、ソ連と戦って東方で領土拡張をすることが必要だと述べています。ドイツの未来をこう述べていたのは、ヒトラーだけではありません。例えばルーズベルトの前の米大統領であるハーバート・フーバーは1938年、チェンバレン首相とのロンドンでの会談で以下のように述べています。

 「今、ドイツは東に向いている。彼らは陸の民族だ。彼らの膨張のために、さらなる領土と資源を求めるだろう。そのとき彼らにとって極めて重要な土地が、ロシアとバルカン半島である1)

 このようにポーランドとドイツのそれぞれの事情を考えれば、ポーランドがドイツと組んでソ連と戦う、という手もあったはずなのです。ドイツのリッベントロップ外相は、ポーランドのベック外相との間で、ダンツィヒのドイツへの返還とポーランド回廊の扱いについて実質的合意ができていたと語っていました2)

 しかし1939年3月31日、イギリスのチェンバレン首相は今まで行ってきた対独宥和政策を破棄。ポーランドの独立の保証を宣言しました。つまりイギリスは「もしポーランドが攻撃されたらイギリスが守ってやる。だからダンツィヒをドイツに渡す必要はない」という意思表明を行ったのです。これがヒトラーを激怒させ、ドイツの態度が強硬的になりました。

 では、なぜチェンバレン首相はドイツに対し、冷たくなったのか?実はここに、ルーズベルトが絡んでいたのです。

 ジェームズ・フォレスタル米海軍長官は日記の中で、アメリカの駐英大使であったジョセフ・ケネディと会話したときのことを以下のように語っています。

 「今日、ジョセフ・ケネディとゴルフをした。私は彼に、1938年以降どのような会話をルーズベルトやチェンバレンと交わしたかを尋ねた。彼は次のように語った。1938年には、イギリスは戦いの準備もできておらず、ヒトラーと戦うことなど危なくてとてもできない状況だった。ウィリアム・ブリット(アメリカ駐仏大使。ヨーロッパ全体を管轄する全権大使のような力を持っていた)の工作さえなければ、ドイツはイギリスとの戦争を避けただろう。そうなっていればヒトラーはソビエトと戦っていたはずである。ブリットがFDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルトの略)を説得し(1939年夏)、ポーランドに、ドイツの要求には一切妥協するなと強要したのである」

 「フランスもイギリスも、アメリカの工作がなければポーランドの問題を開戦理由にするようなことはなかった。ブリットはFDRに、(ポーランドが強気でいさえすれば)ドイツが軍事行動に出ることはないと吹き込んでいた。ケネディは、そんなことはないと反論していた。ケネディはチェンバレンが『イギリスを戦争に追い込んだのはアメリカである。ルーズベルトがイギリスを無理やり戦争に駆り立てた』と語っていたことを教えてくれた3)

 また、1930年代にポーランド駐米大使であったイェジ・ユゼフ・ポトツキは、アメリカ駐仏大使のウィリアム・ブリットと交わした会談内容について、次のように報告(1939年1月16日付)しています。

 「フランスとイギリスは全体主義国家とはいかなる妥協もしてはならない。それが大統領(ルーズベルト)の断乎たる考えである。両国は、どのような形であれ現行の領土の変更を狙う(ドイツとの)交渉に入ってはならない。その要求の代償として、両国に対してアメリカは倫理的な約束をしている。それはアメリカは孤立主義を止め、戦争が起きた場合には積極的に英仏の側に立って干渉する、というコミットメントである4)

 このように、実は裏でルーズベルトやウィリアム・ブリットがイギリス・フランスに「ドイツの要求に応じるな」と圧力をかけていた、というのです。その結果、英仏はドイツに強硬的になり、イギリスの後ろ盾を得たポーランドも強気になり、それに対してドイツが怒り、結局戦争になってしまったのでした。アメリカが余計なことをしなければ、ドイツとポーランドの交渉はうまくいき、イギリス・フランスがドイツと戦争することはおそらくなかったでしょう。それをわざわざこじれさせ、戦争に発展させてしまった原因を、ルーズベルト率いるアメリカが作っていたのです。

 しかも、1939年9月3日に英仏がドイツに宣戦布告したにも拘わらず、アメリカはいつまで経っても参戦しませんでした。結局アメリカが参戦する前に、1940年6月、フランスはドイツに占領されてしまいました。フランス首相ポール・レノーは6月13日のラジオで国民に「フランスは血を流している。なぜアメリカはドイツに対しての戦争を躊躇するのか」という趣旨のことを訴えています5)



事実を捏造してまでドイツと戦争しようとした


 ルーズベルト大統領がなかなか参戦できなかった理由に、アメリカ国民の世論があります。真珠湾攻撃直前まで、アメリカ国民の83%がアメリカの参戦に反対していました6)。そのまま参戦したら、国民の大半を敵にまわすことになります。そうなればルーズベルト政権は倒れてしまいます。

 そこでルーズベルトは、「ドイツに攻撃されたので仕方なく参戦する」という話にするために、事実の捏造を行いました。その例が、1941年9月4日の『グリア号事件』と10月17日の『カーニー号事件』です。

 まずグリア号事件ですが、これはアメリカ駆逐艦グリア号とイギリス航空機がドイツの潜水艦を攻撃したという出来事です。海軍作戦部長ハロルド・スターク大将の報告書は、次のような内容でした。

 当時グリア号はアイスランドへ向かう途中でしたが、イギリスの航空機から「真正面訳10マイル先に潜水艦がいる」という連絡を受け、潜水艦を3時間28分にわたって追いかけ回しました。その間、グリア号が潜水艦の位置を送信し、イギリスの航空機が潜水艦付近に爆雷4発を投下し、飛び去っています。それに対して潜水艦はグリア号に向けて魚雷1発を発射。グリア号は爆雷8発で潜水艦を攻撃。潜水艦はもう1発魚雷を発射。いずれも当たらず。その後潜水艦を見失いますが、約2時間後、再び潜水艦と接触するとただちに爆雷で攻撃。しかし効果は確認できず。その後さらに約3時間創作を続け、諦めて元の任務に戻りました7)

 明らかにアメリカ・イギリスから先に攻撃を仕掛けたわけですが、この事件をルーズベルトは9月11日のラジオで次のように述べたのです。

 「(グリア号は)アメリカの郵便物をアイスランドに運んでいるところでした。この駆逐艦はアメリカ国旗を掲げて航行していました。この艦がアメリカ船籍であることは見間違いようがありませんでした。そうして、そこで同艦は潜水艦に攻撃されたのです。ドイツはそれがドイツ潜水艦であったことを認めています。・・・・・・率直な事実をお伝えします。それはドイツの潜水艦が先にアメリカの駆逐艦に対して発砲したということです。それも警告もなしに、計画的に、アメリカ艦を撃沈させようと」
 「われわれはヒトラーとの武力戦争を望んだことはありません8)

 つまり、ルーズベルトは真っ赤な嘘をついていたのです。「率直な事実をお伝えします」とまで言いながら。

 次にカーニー号事件ですが、これは護送任務についていたアメリカ海軍艦カーニー号が、ドイツの潜水艦隊と長時間戦闘、その結果ドイツ潜水艦の魚雷がカーニー号に命中し、11人が死亡したという出来事です。グリア号事件のときと同じく、カーニー号が先に攻撃を仕掛けました。この事件に関しても、ルーズベルトは「ドイツが悪い。アメリカは戦うべきだ」という趣旨の演説で国民を煽っています9)

 このように、当時ルーズベルトは「ドイツに攻撃されたので仕方なく参戦する」という話を作るために必死でした。ドイツは攻撃されない限りアメリカ海軍との戦闘を避けていたため、結局この工作はうまくいきませんでした。しかし、こういった最初の一発を撃たせるための挑発を受けていたのは、ドイツの他にもう一か国あったのです。それが日本でした。



ハル・ノートは日本だけでなく、アメリカをも欺いた


 ルーズベルト大統領は対日資産凍結や石油の全面禁輸などの経済封鎖を行いました。それによって日本は、このままでは国が干上がってしまうという状況に追い込まれたのです。それでも日本はアメリカとの戦争を避けようと粘り強く交渉を続けていました。しかし、その日本にとうとうアメリカとの交渉を諦めさせたのが、あの「ハル・ノート」でした。

 ハル・ノートとは、1941年11月26日(アメリカ時間)にアメリカが日本の野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命大使に手渡した文書です。交渉時のアメリカ側責任者がコーデル・ハル国務長官だったので、ハル・ノートという名前になっていますが、もちろん最高責任者はルーズベルトです。

 ハル・ノートは口頭陳述と本体(第一項・第二項)から成っていますが、ここでは特に重要な本体の第二項について見てみたいと思います。第二項は次の十項目から成っていました。

(1)日米両国はイギリス・オランダ・支那・ソ連・タイと共に多辺的不可侵条約を締結する
(2)アメリカ・イギリス・支那・日本・オランダ及びタイ政府間に仏印の領土主権尊重に関する協定を締結する
(3)日本は支那及び仏印より一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤退させる
(4)日米両国は重慶政府以外のいかなる政権をも軍事的、政治的、経済的に支持しない
(5)日米両国は支那における治外法権を放棄する
(6)日米両国は新通商条約締結の交渉に入る
(7)日米両国は相互に資産凍結令を廃止する
(8)円ドル為替安定につき協議する
(9)両国政府が第三国と結んだいかなる協定も本協定の目的すなわち太平洋全地域の平和と矛盾するが如く解釈されてはならない
(10)以上諸原則を他国にも慫慂する10)

 これは日本にとって頭をガツンと殴られるような、衝撃的な内容でした。というのも、(1)から(5)は今までの日米交渉に全く無かった法外な要求だったのです。つまり今までの交渉を全て台無しにするものでした。来栖大使は特に(3)と(4)は絶対不可能と述べています11)。なぜなら、日本が支持している汪兆銘政権を見殺しにすることはできないし、日本が現在戦っている重慶政府(蒋介石政権)に一方的に謝罪せよといわんばかりの内容だからです。

 東郷茂徳外相はこのハル・ノートを見たときの感想を「眼も暗むばかり失望に撃たれた」と手記の中に書いています。アメリカは日本と和平する気なんて毛頭無かった、ということが分かったからです。このハル・ノートによって、日本はアメリカとの和平交渉を諦めました。アメリカは日本と戦う気しかない。輸入できない石油はどんどん無くなっていく。このまま待っていたら国は干上がり、戦うことすらできずに負けてしまいます。だから日本は、行動を起こしたのです。

 しかし、そうするとここで一つの疑問が生じます。真珠湾攻撃直前までアメリカ国民の83%が参戦反対だったことは、先ほどもいいました。それなのに、よくこんなハル・ノートみたいなものが議会の承認を得られたな、と。ハル・ノートの内容は日本に思いっきりケンカを売るものでしたから、こんなもの送りつけたら日本と戦争になるじゃないか、と誰しも思います。つまりハル・ノートは日本に対してだけでなく、大多数のアメリカ国民に対してもケンカを売る内容だったのです。なぜルーズベルト政権はそんなことができたのか?

 実はこのハル・ノート、なんと国民や議会に一切知らせず、ルーズベルトとその周りの人間たちだけでこっそりやったことだったのです。当時共和党の下院議員だったハミルトン・フィッシュも、このハル・ノートの存在を全く知らなかったと述べています12)。だから国民や議会の反発を受けることがなかったのです。

 そうして日本を挑発して最初の一発を撃たせることに成功したルーズベルトは、真珠湾攻撃の翌日に演説を行いました。「恥辱の日」演説と呼ばれるものです。

 「昨日すなわち1941年12月7日、わが国は大日本帝国の海軍空軍兵力によって突然の、かつ入念に計画された攻撃を受けた。12月7日はわが国の「恥辱の日」として記憶されることになろう。
 わが国と日本は平和状態にあり、同国政府および天皇と、太平洋方面における、和平維持に向けて交渉中であった。
(中略)
 日本の入念に準備されたわが国への侵略に対する戦いに、どれほどの月日が必要であっても、正義の力をもって完全なる勝利を実現する。
 われわれは全力で国を守り抜かなければならない。そして二度とこうした欺瞞に満ちた行為によってわが国の安全が脅かされてはならない。
(中略)
 私は議会に対して、1941年12月7日日曜日の、挑発されていないにもかかわらず、わが国を卑劣にも攻撃した事実をもって、合衆国と大日本帝国は戦争状態に入ったことを、宣言するよう求める13)

 驚きの白々しさですが、ルーズベルトは他にも本当にたくさんの嘘をついてきました。この人は息を吐くように嘘を吐きます。

 これでアメリカ国民も議会も完全に騙されてしまいました。皆「卑怯な日本をやっつけろ!」と怒り一色に染まってしまったのです。日本は自分の知らないところで一方的に悪者にされてしまいました。日本は嵌められたわけですが、同時にほとんどのアメリカ人も嵌められたのです。

 ルーズベルトはこうして、日本を欺き、アメリカ国民を欺き、アメリカ議会を欺き、自分のまわり以外の全ての人間を欺いて、日本との戦争を始めることに成功したのです。この戦争でたくさんの日本人・アメリカ人が犠牲になりました。



なぜ日本は真珠湾(アメリカ)を攻撃したのか


 ハル・ノートでアメリカとの和平を諦めた日本は、1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争に突入しました。

 ここで一つの疑問が生じます。なぜ、日本はいきなり真珠湾(アメリカ)を攻撃したのでしょうか?確かにハル・ノートの内容はひどいものでしたが、しかしアメリカの世論は大多数が戦争反対で、アメリカから宣戦布告することは難しい状況でした。だから、とりあえずアメリカのことはほっといて、まずは国内で無くなっていく石油を確保しにいく、という道もあったはずなのです。

 石油を確保するのであれば、まずインドネシアを植民地支配していたオランダと石油交渉をするという手も考えられます。インドネシアのスマトラ島に石油がありましたから、オランダにお金を払って石油を売ってもらう。拒否されれば仕方ないので一戦交え、なんとか石油交渉のテーブルについてもらい、改めて交渉する。そうすれば石油を確保できるし、それだけならまだアメリカが日本に宣戦布告してくる可能性は低かったでしょう。しかし史実では、日本はいきなりアメリカを攻撃し、日米戦争が始まってしまったのです。一体何があったのでしょうか?

 この疑問について、アメリカの国防政策専門家であるフェフリー・レコード氏はこう分析しています。

 「日本海軍は英米は不可分と主張していた。日本海軍は、英米は戦略的に分けて考えることはできないとみていた。それはルーズベルトが日本とドイツを不可分と理解していたことに酷似していた。日本海軍は英領や蘭領を攻撃すれば、武力を伴うアメリカの激しい反発は必至だと考えた。したがってアメリカに対する先制攻撃は軍事戦略上どうしても必要だと結論づけたのだった14)

 つまり、日本は「英米は不可分である」と勘違いしたがゆえに、アメリカとの戦争はもはや避けられず、戦争を有利に進めるためにはアメリカへの先制攻撃が必要だと判断した、というのです。実際、当時の日本側の資料を見ても、英米は不可分と思い込んでいたことがうかがえます。1941年10月中旬に「南方作戦陸海軍中央協定」が策定された際、陸海軍の間で次のような作戦論争がありました。

 「まず蘭印を急襲してマレーにいたるという作戦も検討の対象となるが、さすがに英米がこうした作戦行動を見逃すとは考えられなかった。議論の末、フィリピンと英領マレーに対して同時に『先制急襲』し、左右二方向から急速に南下して蘭印にいたる、という作戦が採用されることになる15)

 "さすがに英米がこうした作戦行動を見逃すとは・・・" のくだりは、まさに英米は一体だと考えていたことをあらわしています。

 しかし、実際は違ったのです。当時のアメリカ国民はイギリスに対して「イギリスの植民地維持のために、アメリカは利用されるのではないか?」という不信感を持っていました。だからこそ、イギリスがドイツに宣戦布告(1939年9月3日)した後も、「イギリスを助けるために戦うべきだ」という世論があまり高まらず、大多数の国民は参戦に反対だったのです。アメリカの世論はイギリスに対して冷たく、英米は決して不可分などではありませんでした。

 こういうアメリカの事情に関する情報が、どうも日本には足りなかったようです。改めて情報収集・分析の大切さを痛感させられる話です。



なぜルーズベルトはそこまでして戦争しようとしたのか


 こうしてルーズベルト大統領の裏工作を見ていくと、アメリカを参戦させるためのその異常なまでの執念に驚かされます。では、なぜルーズベルトはここまで戦争にこだわったのでしょうか?これにはいろいろな理由が考えられます。


ニューディール政策の失敗を取り戻そうとした


 ルーズベルトが推進した経済政策であるニューディール政策の結果、アメリカの景気は回復しませんでした。失業者は1,200万人でほぼ変わらず、それなのに財政赤字は190億ドルから2,500億ドルに膨らんでしまいました16)。だから、アメリカの景気を回復させるために他の手を打つ必要がありました。

 ジョン・T・フリンという米ジャーナリストによると、1938年にはルーズベルトの最も親密な政治顧問が次のように語っていたそうです。

 「ルーズベルト大統領は、軍艦船を作ってアメリカの重工業を活性化させるために、日本を戦争に追い詰めるつもりだと言っていた17)

 しかしこれだけでは、大多数が参戦反対の世論をひっくり返してまで戦争しようとする理由としてはちょっと弱いかもしれません。


ルーズベルトが個人的に日本人を嫌っていた


 駐米英国大使だったロナルド・キャンベルは1942年8月付の手紙の中で、ニューヨーク州ハイドパークのルーズベルト私邸でルーズベルトと対談したときの会話内容を記録しています。

 それによると、ルーズベルトはスミソニアン博物館の自然人類学担当の博士、アレシュ・ヘリチカと親交があり、博士から二つのことを学んだそうです。一つはインド人が白人と同種だということ。もう一つは日本人の頭蓋骨は未発達で、白人に比べ二千年も遅れているという説でした。これを踏まえて、アジアに文明の火を灯すには、アジア人を(優秀な白人種と)人種交配させ、ユーラシア系とヨーロッパ・アジア系とインド・アジア系をつくり出し、それによって立派な文明とアジア社会を生み出していくこと。ただし日本人は除外してもとの島々に隔離して次第に衰えさせるべきだ、というのがルーズベルトの考えだということです18)

 このように、ルーズベルトの人種差別主義による悪意は凄まじいものがありました。ルーズベルトだけでなく、当時は今よりもっと人種差別意識が強く、日本人はこういう理不尽な悪意とも戦わなければなりませんでした。

 確かにこれはルーズベルトがやたら反日的だった理由にはなると思いますが、しかしドイツと戦争したがった理由にはなりません。


ソ連のスパイや容共主義者に利用された


 ルーズベルトが意地でも戦争しようとした理由の中で、最も重大なものがこれだと思います。

 実は、ルーズベルトのまわりにはソ連のスパイ(コミンテルン)や容共主義者がたくさんいたことが、ヴェノナ文書で分かっています。例えば、ハリー・デクスター・ホワイトはルーズベルト政権で財務次官補を務めた人ですが、後にソ連のスパイだったことが判明しました。ホワイトはハル・ノートの原案を作った人です。

 共産主義国家ソ連は、資本主義国家間の対立を煽って戦争させ、その後弱ったところで革命を起こし、共産化する、ということを推し進めていました。それはソ連自体を守ることにも繋がります。コミンテルンはその具体的な工作を行っていたわけです。その結果、第二次世界大戦でイギリス・フランスとドイツが戦い、日本とアメリカが戦うはめになりました。この時代をソ連はほぼ無傷で切り抜け、一人だけ美味しい思いをしています。スパイ工作だけが全てを決めたとは思いませんが、しかし世界情勢にかなりの影響を与えたことは確かでしょう。この辺りの詳細は別途、違う記事でご紹介します。

 ソ連とコミンテルンに対し、ルーズベルトは無警戒でした。ソ連の最高指導者、ヨシフ・スターリンに対しても非常に甘く、ソ連に対し宥和的外交を続けました。しかしルーズベルトが死亡して16年後の1961年ごろ、ルーズベルト夫人であるエレノアはあるテレビ番組に出演し、ルーズベルトが死の直前にスターリンに失望していたらしく、スターリンへの抗議の文書を何通かしたためていたことを明らかにしました19)。また、ルーズベルトの長女の夫だったカーチス・B・ドールは、「最後の最後に、ルーズベルトはスターリンからどれほど「巻き上げられたか」、ジョージア州ウォーム・スプリングズで明らかに後悔と憂慮の念を表明している」と述べています20)。つまりルーズベルトも死の直前でようやく対ソビエト外交の失敗に気づいたのでしょうが、全ては遅すぎたのです。



【参考文献】
1) Herbert Hoover, George H. Nash, ed, Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath, Hoover Institution Press, 2011, p.98
2) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.144
3) 同上、p.131
4) 同上、p.171
5) 同上、p.110
6) The Gallup poll cumulative index : public opinion, 1935-1997
7) チャールズ・A・ビーアド『ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか』開米潤・阿部直哉・丸茂恭子訳、藤原書店、2011年、p.203
8) 同上、p.200
9) 同上、p.205
10) 中村 粲『大東亜戦争への道』展転社、1990年、p.609
11) 同上
12) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.42
13) 同上、pp.5-7
14) ジェフリー・レコード『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか 「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦』渡辺惣樹訳、草思社、2013年、p.93
15) 波多野 澄雄『幕僚たちの真珠湾』吉川弘文館、2013年、p.194
16) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.329
17) NSA公開資料, Tom Johnson, What Every Cryptologist Should Know about Pearl Harbor, 09-27-2007, p.56
18) 日下公人・高山正之『日本はどれほどいい国か』PHP研究所、2008年、pp.185-186
19) ハミルトン・フィッシュ『ルーズベルトの開戦責任 大統領が最も恐れた男の証言』渡辺惣樹訳、草思社、2014年、p.298
20) カーチス・B・ドール『操られたルーズベルト 大統領に戦争を仕掛けさせた者は誰か』馬野周二訳、プレジデント社、1991年、p.267
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